昭和45年11月14日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の気感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とが、揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の気感に適うたのじゃ。神の気感に適わぬと、身代もあり力もあるがまめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、又大切の者が死んで身代を残して子孫を断ってしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」

 どうぞ神様の御気感にかなう、信心をさせて下さいと、まそう云う風に申しますね。神様の気感にかなうた、信心をさせて下さい。神様の気感にかなうた信心が、だんだん出来て行くところから、その信心がま云うなら此処では三代と、こう言うておられますが親子、孫と云う様に、また神の気感にかなうた生き方と云うか、信心を願わせて頂いておかげを頂いて行くと。
 神の気感に適うた信心と云うのは、一体どういう様な事だろうかと。まあ真心いっぱいの信心とか、申しますけれど、神様の気感に適うと云うこと。まあ色々に御座いましょうが、絶えず自分の信心の成長を願わせて頂く、と云う事ではないかとこう思いますね。神の気感に適うと、だから金光様の信心をして居られるからま、あ人柄も良いし、いわゆる人物も良いと云うただけではね、神の気感に適うたと云う事にはならん。
 神の気感にかなうと云うのは、絶えずいわゆる信心を進めると云うね、信心の成長を絶えず願っての信心を目指すと云う事が、神の気感にかなうと云う事である。それは神様のお気に障るとか、お心にかなわない事も充分ある事でしょう。ね、生身を持って居りますから間違いもあるだろう、思い違いもあるだろうとこう思います。けれどもその、そこにですね、絶えずこれで良いとは思わない、と云う信心を絶えず信心を、一歩でも前進しようと云う生き方。
 どう云う中からでも信心を分からせて頂こうと、どう云う中からでも、神様のお心に適うた信心を発見させて頂こう、と云う様な信心。そう云う信心が、矢張り神の気感に適うた氏子と、云う事に成るのじゃないでしょうか。まあ例えば横着な事を言うておる。いわゆる実意を欠いだ事だと、なるほど、只気感に神の気感に適うた信心と云う事を、只実意丁寧にと云う事だけでは矢張りいかん。
 いや実意丁寧神信心ということが、お道の信心の筋金の様に言われておりますから、大事なことですけれども、実意丁寧神信心をさせて頂いても、そのそれが留まって居る信心では駄目だ。絶えずを絶えず成長しようとする、願いを持っての信心。どんなに実意丁寧を極め実意丁寧にあろうとしとっても、神様の目からご覧になれば、どこにおきざわりがあるやら分からん。第三者のことは、自分自身のことはなかなか分からんけれども、人のことはよく分かる。
 自分の事でも第三者が見るとよう分かるけれども、自分は一向気が付いていないと云ういう様な事がある。ですから絶えず矢張り自分の周囲にですね、気を付けさせて貰い、心して自分の間違いを、気付かせて頂かせて行こうと云う願いを持って居らなければいけない。でないと、信心の成長はない。ただ信心が永く続いておると云う事だけでは、神の気感に適うた信者氏子に取り立てて頂こうと思うならば、矢張り何時も、いわゆる前向きの姿勢と云うかね、とてもこれでいいとは思わぬ。
 これで済んだとは思わぬ、と云う生き方を身に付けて、それならですね、例えそこに間違うて居っても、神様が見逃しなさろうと思うね。その事を通して、またその氏子が成長する、と云う事になりますから、けれどももう自分の生き方とか、あり方と云った様なものを、全然その振り返ろうともしない、いわゆるこれで良かろうと思うとる。これは私は神の気感に適わぬと思う。
 これで良いとは思わん、これで済んだとは思わん、そう云う生き方。中々そう初めから神様の心、神様の心そのものが分からんのですから、心に添う生き方、例え自分は正直な生き方をして居るから、真面目な生き方をして居るから、忠実であるからと云うて居るだけでは分からぬ。何処へおそまつ御無礼があるか分からん。ですから絶えず自分が成長さして頂く。私はもう本当に、自分が改まらなければならないと云うところを、誰からでも聞きたいと思う。
 昨日も私、なんかガクンとやられた様な思いがして、是は神の、神様の声だなと思うた事があるんです。昨日十三日会が終わりましてから後、企画の方達があとの又あのう会合をしておられる時分でした。田主丸の小野先生が朝参りしてるのにまた参って「あら、あんた又参って何事ですか」とちゅうてから「いいえ、今日はあの幹三郎さんの所へお見舞いにやらせて頂いた」と。
  丁度奥さんこちらへお参りされて居られて、幹三郎君だけだたと、それであちらのお医者さんですから、先生方から色々詳しく聞かせて貰い、今度幹三郎さんの手術はもう医大でもね三役と言われる人達が揃うてなさるそうです。こんな手術はちょっと珍しい。もう医大中でもう一つのお医者さん同志の話合いがまあ評判になってるそうですね。こんなひどい病気は見た事が無い。ようもこれまで放っておいたものだと、と云う事らしいですね。
 もうこれが助かったらもう奇跡だと、お医者さん達が言うとる。私はそれを聞かせて頂いてなにか嬉しい気がしたんです。本当これは不思議なくらいなんです。ね、私がもうギリギリの所ね、もう医者も見放した、と云う様な所から、云うならば、私の信心があると云う様な風に思うとりますから、まあだ医者は大丈夫ですよと言うて居る間は本当じゃない。矢張りそこのところから、今日も御神前に出らして頂いたら。
 私がこうやって御祈念さして頂いている此処の中にね、白紙が一枚挟まっているところを頂いた。そこは矢張り紙一重というところだろうとこう思うのです。その事に対してはね、もう本当にもう微動の微もしませんでしたね、聞かせて頂いてところがですね、次の言葉にはちょっとガクッといったですね。どう云う事を言われたかと云うと、その主治医になられる先生が、大変有名な先生ですが、もう富永先生には大変なお世話になって居るからね、そのこれを、まあ引き受けてやるんだと云う事。
 私はもうこの親父の顔が見たいと仰った。私はねその言葉にはガクッとしましたね、親父の顔が見たい。こりゃ後で企画の方にも、話合いにも加わって頂いてあとで食事さして頂く時に、このまま同じ事を話されました。とにかくまあ医大で三役と言われる先生方が、まあ手術なら手術に当たって下さる。ですからこりゃまあ、云うならば大変な見物だと。見物だと云うとお医者さん達の医学を志す人達がまあ、ある意味で大変な、まあその興味を持っておると、云うなら勉強の材料だと、云う事も言えるわけですね。
 そう云う様な事も言って居られました。そう云う様な事を聞かせて頂いても、そのまあ云うなら、いよいよ来る所へ来た。是からが私の信心だなと云う様な気がしてですね、まあ本当にそれこそ、もう本当に微動だの微もしませんでしたよ。もう私はだから、私の嬉しい様な雰囲気がそれを聞いてからこっち、あのお食事の時だって医大の話合いの時だって、皆さん感に来られたと思うくらいです。信心ちゃ有難いと思いますよね。
 けれどもその「親父の顔が見たい」と言われたと云う事がね、私は親父の顔を見せに行かじゃこて、とまあ冗談で言いながらです、こりゃあね、隅先生が言うておられるのじゃあないと、私は思うたです。親父の顔が見たいちゅうのはね、もうそれはそのまま神様の私はお声だと自分で感じたです。怠慢、怠慢無礼とでも申しましょうか、そこに私は、昨夜から色々考えさせて頂いた。ね、神様が云うならば、本当にこう云う大事な、大変な時に親父はどうしておるかと。
 それこそ「親父の顔がみたい親父の面が見たい」とまあそう云う小野先生はそう云う様な人で、ですから性格的に。もうその侭を言われる訳なんですね。病院に行った時の話も赤裸々にして下さる。「親先生貴方の事をその隅先生が、親父の顔が見たいと言よんなさるですよ」と、そん時その事はそうでもなかったけど、その事が段々、段々ですね、深刻に私にはなって来た。夕べも休まれんままにやっぱその事を考えた。
 「親父の面が見たい」ね、ですから是は私がその大変な事を聞いても微動だもしないとか、例えば自分の心が動かなかったと、いや、むしろさあ此処からと云う様なその心が生まれた事は、大変有難い事ですけれどもです。さあこれで良いごと思うとると云う事。いわゆる是で済んだとは思わんとか、これで良いとは思わん、と云う私の気持ちの中には何時もあるのです。これも負うた子に教えられると云うう事もあります。
 だから御信者さん方に、私は申します様に、皆さんがご覧になってからの親先生と云うものがです、おかしい所があったり、此処がいけないと云うところろがあったら言うて下さい。中々そりゃ言うてくれません。けれども、その姿勢で居る事だけは事実、私しゃね、今日この様におかげを頂いて居る。もう本当とにもうそれこそ、まあ四神様のお言葉じゃあないけれども、何処の大名だってですよ、こう云う生活は出来まいと、思う位におかげを頂いて居る。
 そう云う例えばおかげを下さる神様がね、何処に、云うならば見込んでおかげを下さるかと、と、云うとですね、私が何時もこれが良いと思うていないからです。これで済んだとは思うていないからです。それは態度一つだってです、親先生そげなこつしよっておかしかですよと、例えば軽く言うて下さる方達がある時がある。私は椛目の時分でした。中々言うてくれません。私しゃもう終わってから夏なんかステテコ一つで裸になって表によう出とりました。
 したら、ちょうど北野の秋山さんがちょうど参って見えましてですね、大変言いにくそうにしてから「親先生いっちょその格好だけはお止め下さい」と、秋山和枝さん。もう私それっきりステテコ一つで表へ出ることを止めました、本当。ですから、例えばその形で、そう云う事一つでもです、ね、私は改めて行こうと、自分で一生懸命思とります。ましてやそれが信心の生き方、あり方と云う様な事は、皆さんご承知の通りこうならにゃいけんと思うたら。
 そこはすきっと切り替えて、次の信心に進んで行こうとする姿勢を、何時も自分では持っておる積りですよ。しかも、んならその自分例えば、子供なら子供のそう云う大変な事に、いわば追い込まれて居る時に至ってもです、まあある意味で自信過剰と言いましょうかね。いよいよお医者に見放されたと云う所からが、私は信心だと云った様な考え方が間違っているのだろうか。そう云う例えば、横ちょう事を云うておるその親父の顔が見たいと、神様が仰って居るのじゃなかろうか。
 私は、まだ分からんで居るけれども、とにかく私はその親父の顔が面が見たいと言われたその先生の事をね、まあ思い続け考え続けさして頂いて居る。何処までも、本気でより神様の気感に適う氏子に、お取立頂きたいと願うからであります。恐らく一生この考え方は変わらないでしょう。大体人間が出来てもいない、その上に慢心こころが強いと来とるですから、中々神様もお扱いにくかろうとこう思います。ですけれども、何時も神様からお気付きを頂いたり、神様からこうと言われたらです。
それは自分の周囲の人達からでもです。子供の泣き声の中からでも、流行歌の唄の文句の中からでも、神がものを言うて下さる」と四神様は仰って居られます。心の底に於て、ハッと気付く様な事があったら、それはもう神の声なんだ。これは親父たるもの、どう此処の所を改まって行ったら良かろうか、とまあだ分からんどる。もういよいよ明日、明後日ですか、手術が迫って居ると云うのに、これは分からん分からんでは、大変な事になると思うておる。ね、けれどもですよ、そりゃ分からんでもです。
 私がそれに取り組んで、その事をどの様な風に改まったら良いかと云う事をね。思い続けるその心がね、実は神様が、云うならばお暇も下さらんで、こんなにしてお使い下さってある、いや、そして勿体ない程しのおかげを下さっておるのは。そう云う遍な所ではなかろうかと私は思う。毎日参りよるけん是でよかとか、人間これ位の事は当り前とか、と云う様な心は自分の心にさらさら無い積りです。
 そこを改めて行け、私は、だから本当に信者さん方、子供達にでも思うんです。もう云うならばこりゃ私の目から見てですね、そげな事で良かのと云う所が沢山ある。だからその人が本当に聞いて下さるならば、教えて上げたい事が沢山ある。しかも云うならばそげん難しい事ではない、そこを少し改めたらどうのと云う事が沢山ある。けれどもならそこの所を求めて来る人が少ない。まあ無い何時も信心が前向きである。
 何時もこれで済んだとは、より神様の気感に適う私になりたいと云う願い、ね、例えばなら昨日私がその一撃をくった様な思いがした、親先生の顔が見たいと言われるその事がです、隅先生なら私は、ならそりゃいっちょ見せに行かにゃこってで済むけれど。それをお医者さんの言葉じゃあない、神様の声と頂いた時です、これは私の思い方の中にこりゃ大変な間違った考え方をして居るのではなかろかと、と思うて気があせるような思いが、夕べからしよる。
 しかもなら今日あった様にまだ紙一重が中に入っとるなら如何に、私が自信たっぷりの事を言よったっちゃ此処にはまってとるならね。紙一枚がまだピタッとこんでしょうが。此処の所をまあ夕べから考え続けさせて頂いて居る。又今日も暫く考え続ける事であろう出来れば明日の手術前にそれを分からせて貰うて。それこそまあその間際にでも分からせて頂かして貰わねばならんと云う風に思うて居るので御座いますけれどです。
 それはよし分からなかってもです。私はそういう姿勢こそが神様の気感に適うのではなかろうかと。「神の気感に適うた氏子が少ない」ね、只あっちは人物がいいとね、あちらは正直だと真面目だと、ね、あっちは中々やり手だと、例えばね、それだけが神の気感に適うのではない。どんなに屑の子であっても、どんなに云うなら人間的に、まあ云うなら詰まらん人であっても、私共の様にです。
 人間的には詰まらん私であっても、絶えず本当な事にならして貰い、絶えず神様の心に一分でも一厘でも近ずかせて頂こう、変わらせて頂こうと、云う願いを持って居ると云う事がです、私は神様その事自体が、神の気感に適うから、矢張りおかげを下さるのじゃなかろうかと、云う風に思うのです。皆さんもどうぞもう何を、言わば信心の伸びて行く場合には犠牲にしてもです、そこから絶えず進んで行こうとする姿勢。
 そう云う姿勢こそ神の気感に適うのではないかと。一生かかったって、神様が本当に神の気感に適うた、適うと云う程しの事は出来まいけれども、そう云う信心をさせて頂く所にです、矢張りそれが子供に孫に伝わって行かん筈がない。完璧に出来なければおかげはやらん、と仰る神様では決してない。問題は実意丁寧神信心を以ってです、絶えず信心を、一歩でも前へ前進しよう。
 自分の生き方が、を、改めて行こうと云う願いですか、そう云う願いを持っての、信心をさせて頂くおかげを頂く時にです。例えばあれは横着な奴だと、神様思召す事があるかも知れんけれども、そこでも例えばなら私が「親父の顔が見たい」と云う事は横着な奴だなあと、神様が言うておられる事かも知れません。そこでそれに気付かせて頂いたら、そこを一つすきっと改めて行こうとする私は姿勢を。
 私は持たせて頂いて居る積りである。それはどんな小さい事でも、より立派な取次者、より立派な先生にならなきゃならない、と何時も願って居る。それはちょっとした形の事だってそうです。癖とか習慣でも「先生そげな事しよんなさるとは見苦しいですよ」と云う様な事をよく聞かせて貰う事があるがね、それを私は一生懸命こりゃあ改める
  (途中切れ)